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人生がグレーに染まったとき

2020年3月12日「木曜日」更新の日記

2020-03-12の日記のIMAGE
稲葉さんの三〇代はピンク色に輝いていた。シングルのキャリアウーマンでやり手、三二歳で家を手に入れ、郷里にひとりで住む母親を呼び寄せ、母と娘の楽しい水入らずの生活が始まった。ちょうどこのころから、女性同士がいたわりあって暮らす共同住宅の建設を稲葉さんは計画していた。私もその計画には乗り気で、「シングルで必死に働いてきた女性の老後は楽しいものでなければならない」といつも話しあっていた。その女の館ピーチハウス"の計画は、・配偶者をもたず、生涯シングルで働いて生きてきた女性の共同住宅で、の住みかをめざしていく。・資金は共同出資とし、相続権は同じ志をもつ後輩が共同で継承し、個人資産にはしない。・環境に応じて両親の同居を認め、手をさしのべあって老後を安心して暮らせる運命共同体とする。・共同でなんらかの事業を起こし、経済的安定をはかる。このような骨子で、すでに稲葉さんの郷里に土地を買いとる手はずになっていた。しかし、母親が八〇歳を迎えたころだった。ある日、夕食のおかずに買ってきたしこを生のまま、手づかみで食べているのを見て、凍りつくような衝撃に息をのんだ。それが痴呆の兆候の最初であった。こうして始まった母親の痴呆は一進一退を繰り返し、八六歳で没するまで六年間、仕事と自宅介護の板ばさみの日々が続く。その両立は生やさしいものではなく、鏡を見る暇さえない苛酷な毎日が続いた。いくたびとなく仕事を放棄して介護に徹したいと望んだ。が、生活費はどうなるのか.......。快く受けいれてくれる病院も数少なく、当時の福祉対策は現在より立ち遅れていた。どこに相談すればいいかもわからないまま、母親の痴呆は進行し、失禁や食欲不振、夜中に何回となく呼び起こされる状態が続いた。稲葉さんは眠る暇もなく、ダウン寸前まで追いこまれていった。老人は食欲がなくなったら、死が近い。という知識もなく、昼食用に置いて出かけた菓子パンは、手もつけられないまま置かれている。これを見て、心の中で稲葉さんは泣いた。ーどちらが先に倒れてもおかしくないギリギリのところまできたとき、以前から頼んでいた病院に空き室ができ、ようやく入院ができた。母親が亡くなるちょうど一ヵ月前、発病から六年目のことである。

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